将軍塚についてご案内します。
長岡京に遷都してから、洪水の被害にあったり、疫病が広まったりした中、桓武天皇は
その政治基盤を強固にする目的もあり、ふたたび遷都することを考えられるようになりました。
青蓮院門跡 別院 大日堂のパンフレットにその経緯が次のとおり説明されています。
『和気清麻呂は狩りにことよせて、天皇をこの山上にお誘いし京都盆地を見おろしながら、
都の場所にふさわしい旨進言した。天皇はその勧めに従って延暦13年(794年)に都の建設に着手
されたのである。(天皇は)長くこの都を護るようにとの祈りをこめて、高さ2.5m程の武将像を作り、
ここに埋めるように命じられた。これを将軍塚という。』
山背(やましろ)の国、葛野(かどの)の地が新しい都に選ばれた理由:
(平城京にも近い。東には鴨川が流れる。西の桂川を下れば淀川から難波宮にも行ける。
北へ行けば比叡山を越え琵琶湖を渡り日本海へ抜けて中国ともつながる。)
桓武天皇は、新しい都が、平で安らかな地であることを願って、
「平安京」とよべと言われたそうです。
将軍塚とは、いったいどこにあるのか、もし歩いて登るには?、などについてご案内します。
いろいろなブログを調べてみましたが、わかりやすいものが見つかりませんでした。
今回、実際に自分で歩いてみましたので、興味のある方は参考になさってください。
粟田口からの登り口は、知恩院の左の青蓮院と、その北にある粟田神社の間にあります。
約40分で頂上に着きます。
粟田口から登り始めたところの道です。ところどころ傾斜がきついところもあります。
2〜3日雨が降っていない頃でないと赤土の道は滑りやすくキケン。
当時もこんな山道を牛に乗って桓武天皇は登られたのでしょうか。
ヒマラヤで活躍するヤクは滑りやすい地面でも2本の爪でしっかり立って、70kgくらいの荷物を
背負って急な山道を歩きます。牛は滑る山道は苦手です。
へたり込んだ牛に、「こら!ヤクのように立たないやつ!」と言ったところから、役立たず、
となったのかも知れないなと思いながら歩いていました。
無料の展望台から京都タワーを望む。タワーの左の方向に東寺の五重塔が見えます。
その左の手前側に京都プラザホテルがありますが、わかりますか。
拝観料を払って青蓮院門跡の庭園に入り、展望台から京都のなかほど(葛野のあたり)を望む。
右の方には四条通も見えます。
同じく、京都の北の方を望む。
同じく、比叡山(848m)を望む。
知恩院への下り道。約20〜25分で知恩院の大鐘楼のところに着きます。
この大鐘楼はゆく年くる年でお馴染みの(17名のお坊さんが除夜の鐘をつく)ところです。
粟田口からの道より少し広い道です。
上の風景写真4枚は、京都を東側から西側に向かってみた風景です。
和気清麻呂(当時の高官です)が桓武天皇に、『あんさん、ここにしときなはれ。』と言ったかも
知れない情景がうかびましたでしょうか。京都が北から南に、(写真では、右から左へ)
ゆるやかに傾斜しているのがおわかりになりましたでしょうか。伊能忠敬じゃないし、ムリ?
それゆえに、京都では、北に行くことを上ル(あがる)、南に行くことを下ル(さがる)といいます。
最後になりますが、山ガールのみなさんも、男性を含むグループ行動で、
用心をして登られるようお願いします。
少し長くなりましたが、この辺で。
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